鹿沼・つくばの座敷箒:その伝統と魅力の再発見

工芸

最近では掃除機の騒音が小さくなってきていますが、それでも夜間に使用すると近所との間で問題が起こることがあります。特に、アパートやマンションのような集合住宅では、掃除をする適切な時間を見つけるのが難しいです。

そんな時に便利なのが、いつでも気軽に使える座敷箒です。これを使えば、手軽に部屋を綺麗に保つことができます。

今回は、鹿沼とつくばで長い歴史を持つ座敷箒にスポットを当てて紹介します。

座敷箒が育った名産地

栃木県の鹿沼市と茨城県のつくば市は、座敷箒の名産地として長い間知られています。これらの地域では、座敷箒を作るのに必要なホウキモロコシの栽培が盛んで、国産の座敷箒を生産する工房が今も活動しています。

ホウキモロコシを使った座敷箒の製造が始まったのは、1800年代初めの江戸時代末期と言われています。

1712年に編集された和漢三才図絵によると、当時は主に棕櫚箒が用いられていたようです。しかし、畳の普及に伴って、100年ほど経ってから畳を掃くのに適したホウキモロコシ製の座敷箒が出現しました。これらは棕櫚箒よりも柔らかく、畳に適しているため好まれるようになりました。

座敷箒製造の歴史を振り返ると、東京都中央区京橋にある老舗、白木屋伝兵衛商店が天保元年(1830年)に創業したことから、1800年から1830年の間にホウキモロコシ製の座敷箒の生産が始まったと考えられます。鹿沼では天保12年(1842年)にホウキモロコシの栽培が始まり、その後座敷箒の生産が盛んになりました。

鹿沼・つくばにおける箒製造の歩み

江戸近郊で始まったホウキモロコシを用いた座敷箒の製造が鹿沼に広がり、ここで特有の発展を遂げました。特に目を引くのは、柄と箒の穂を繋ぐ部位を丸く膨らませた「蛤型箒」の製法の確立です。

この蛤型デザインは、古くから良い縁を結ぶ吉兆として親しまれ、その美しさと幸運をもたらすとされる特性から、国内外で評価されるようになりました。

鹿沼で作られた箒は、1877年(明治10年)に開催された内国勧業博覧会に出品され、その際に一人の職人が高評価を得たことが記録されています。これにより、蛤型箒の製法は江戸時代末から明治初期にかけて確立されたと考えられます。大正11年に発行された栃木県の産業報告書でも、鹿沼の箒が地域の特産品として取り上げられ、地域経済におけるその重要性が認識されていました。

箒が地域の主力産品となると、鹿島だけではホウキモロコシの需要に応えられなくなりました。そこで、ホウキモロコシを栽培していた茨城県つくばとの間で交流が生まれます。つくばでは、蕎麦畑を風害から守るためにホウキモロコシを畑の周りに植える独自の対策が取られていました。これが、箒の原材料を求める栃木県の商人たちがつくばに足を運ぶきっかけとなり、つくばも重要なホウキモロコシ栽培地としての地位を築きました。

その後、原材料の供給だけでなく、製造の技術や方法の交流も進みました。1889年(明治22年)には、鹿沼で箒製造の技術を学んだ中島武平がつくばでの製造を開始。彼が地元の農家に技術を伝授したことで、つくば地域にも箒製造が広まり、やがて地場産業として定着しました。

座敷箒職人の技術と伝統の継承

鹿沼とつくばでは、長い間、座敷箒製造が地域の特色ある産業として発展してきました。しかし、昭和時代に入り掃除機が広まると、座敷箒への需要が減少し、職人さんの数も徐々に少なくなっていきました。一時はこの伝統的な産業が消えてしまうのではないかと心配されましたが、最近になって復興の兆しが見えています。

特に鹿沼では、宇都宮大学の学生たちが中心となり、ホウキモロコシの栽培から箒の製法まで、伝統技術の継承に力を入れています。つくばでも、酒井豊四郎氏のような箒職人が、無農薬で育てたホウキモロコシを使った座敷箒で注目を集めており、これに触発されたフクシマアズサ氏をはじめとする新世代の職人たちが現れています。これにより、座敷箒作りの伝統は現代にも息づき続けていることが示されています。

座敷箒は掃除機とは違い、どんな時でも自由に使えるというメリットがあります。100年以上の歴史を持つ鹿沼・つくばの座敷箒を使って、日常の掃除を楽しむことも素敵な選択肢ですね。